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「こども食堂と私たちの地域・社会」という湯浅誠さんの講演を聞きに行ってきた

子ども食堂

 

公民館で行われた湯浅誠さんの講演を聞きに行ってきました。

 

湯浅誠さんは、こども食堂の広がりを期待しているようなので(もうすぐ全国の中学校の数に迫る増加率)、その時の講演内容を書いて、知らなかった人に少しでも知ってもらいたいと思いました。

 

とはいえ、自分の備忘録として書くのが目的なのですが。

 

というわけで私の記憶に頼った内容なので、大筋では間違っていないと思いますが、全部正しいわけではありません。

 

湯浅誠さんは、年越し派遣村の村長として知った人も多いですが、その前からも名前はちらほら出ていたと思います。

 

私の場合は、甥っ子と高校が一緒であることから、甥っ子の先輩として記憶にありました。

 

 

 

こども食堂とは、子どもが一人で行ってもいい食堂

 

こども食堂といいますと、私も誤解していたのですが、貧困家庭の子どもが行く食堂、給食がメインとなってしまっている子どものための食堂というイメージが強いと思います。

 

この日本で「食事ができない子ども」というのがイメージできないとして、うそ扱いされやすいのですが、ここまで酷い例だけでなく、母子家庭で夜、お母さんが働きに行って家にいない、というご家庭にとっては、食堂があることはいいのだろうなと思っていました。

 

私自身、知り合いに離婚して母子家庭出身だという人から、夜、親が働きに出るとき「行かないで」とダダをこねたという話を聞いて、母子家庭の悲しさを知っていたために、そのイメージに引きづられていたことは、あります。

食べられない子どものための無料食堂というイメージがあまりにも強いのです。

 

ですが、講演を聞いて、子ども食堂は貧困家庭や母子家庭の子どもだけのためにある食堂ではない、ということがわかりました。

 

湯浅誠さん自身は、それを「公園」にたとえていました。

 

地域の公園です。入口で、何歳以上は入ってはいけませんとか、書いてありませんよね。

 

公園は、友だちと行ってもいいですし、大勢でもいいのです。その反対に、一人で行ってもいいところです。

 

そのような場所に子ども食堂はなって欲しい。誰かの居場所になれる場、それが子ども食堂です。

 

自分で決める居場所

 

講演で、今、学校は居場所になっているか?という質問がありました。

 

子どもに聞くと、五分五分だそうです。半分の子どもにとっては居場所であるが、半分の子どもには、学校は居場所ではない。

 

クラスメイトとの関係がいい、先生との関係がいい、そういう場合は居場所になるでしょう。関係が悪かったら、学校は行きたくない場所になります。

 

居場所とは、どうやら関係性の話らしいことがわかります。

 

これはこどもだけの話ではないとして、会場で仕事をしている人に質問していました。

 

職場は居場所であるかどうか。

 

答えた人は上司や同僚にも相談できるので居場所であると答えました。

 

同僚も上司も自分を見ていてくれる感じはする。評価されているというと重たいのですが、そこまでいかなくても自分を「みていてくれる」は大事なのです。

 

居場所とは、「本人」が感じられることが大切です。

他人に強制されるものではありません。第三者が決めることでもありません。

 

家庭内に居場所はありますか?との質問に「家の押入れ」と答えた人がいたそうですが、他人がどう思おうと、自分が居場所と思ったら「押入れ」も居場所です。落ち着くし。

 

また「見ていてくれる」が重要な例も教えてくれました。こども食堂で勉強をみてくれる大学生とそばで勉強している小学生がいたそうです。

 

小学生がやっているのは、漢字ドリル。漢字を真似て書くだけですから、大学生が答えの導き方を教えてくれるわけでもありません。

 

しかし、家ではすぐ勉強に飽きてしまうお子さんなのに、「ただ見ているだけ」の大学生がそばにいたら、その子は、1時間でもずっと漢字ドリルをやっていたそうです。

 

それをそばで見ていたお父さんがびっくりするくらいです。家でも見てあげたらいいのだけど、みなさん日々の仕事や家事でなかなかできませんね。

 

それと同様に、子ども食堂では、「ここでは家では食べないものを食べる」ということもよく聞くそうです。家では煮物は食べないのに、子ども食堂では食べるなど。

 

余談ですが、学習支援というと、私は英語ができませんとか、数学が苦手ですとか、メンバーに元教員がいないとか言って、先に「できません」と言われる人が多いそうですが、学習支援は勉強ができる人しかできない、というものではないそうです。

 

この大学生のように、ただ「見ているだけ」でもいいとのこと。

答えを教えないといけないとか、勉強が得意な人だけがすることでもないのです。

 

子どもたちだけで集まって宿題をしている時、早く終わらせて遊びたいからと算数の計算ができない子に答えを教えてしまっている子たちがいたそうです。

 

その時に、答えを教えるではなく自分で考えさせようとして、答えだけを教える子どもたちを制止するのが「見守る」ことだと。こういう学習支援もあるのです。

 

そばにいることが、「支援」になるのです。見ていることが支援と思うと、気が楽になりませんか。

 

同じく、子ども食堂で働くボランティアの人も(高齢の女性も多い)居場所になっている可能性があります。

 

ボランティアをやっている人は、子ども食堂で働けば、同世代もいるし、話もできるし、出かけることで気晴らしもできる。

 

居場所とは、義務で行く場所ではない

居場所とは、自分が行くかどうかを決める場所なので、義務で行く場所でもありません。本人しか決められない場所です。

 

そのために、誰かの居場所になったらいいなぁとして、子ども食堂をやりはじめた人は、賭けをしているのだという話もありました。他人の居場所を作ることはできても、それが居場所になっているかどうかは別問題ですから。

 

義務で行く場所でもないので、居場所になったらいいなぁと始めたとしても人が必ずしも来てくれるとも限らずです。

 

子ども食堂をやっている人は賭けをしている気分と不安になっている部分があると。

本当に誰かの大事な居場所になっているのだろうか、と日々不安なのです。不安をかかえながら、子ども食堂の運営という賭けをやっているのだと。

 

そういう時に子どもの書いたメッセージに「これからも子ども食堂を大切にしていきます」というメッセージをもらって元気づけられたという話を聞きました

 

となると、子どもに認められたことでこの子ども食堂の代表の人はやりがいもできますし、続けていけることになるのでしょう。

 

居るだけが支援にも

居場所とは、何をしていてもいいのです。居るだけで良いのです。

何かやっていなくても認められる、というのも大事なことです。

 

頑張るにも2通りあって、

頑張ったから認められる、もっと頑張ろう。

認められたから頑張ろう。

出発が違います。

 

誰しも赤ん坊の頃は、何もできません。

赤ちゃん時代からパーフェクトにできた人なんていないのです。認めてくれたから頑張れる、もあるということです。見ていてあげているか、が大事です。

 

高齢者も行く子ども食堂

 

さて、子ども食堂というと、子どもだけが来ていると思われがちですが、子ども食堂の3分の2は高齢者も訪れる場所になっています。参加するのに条件がない、という子ども食堂は、全体の8割近くです。

 

多世代交流の場にもなっています。

 

誰かの大事な居場所にとして始めていますから、制限を設けている子ども食堂のほうが少ないのです。

 

これは10年ほど前からできた子ども食堂を最初に作った人、子ども食堂の名付け親になったと言われる人も言っていたと以前に私も聞きました。

 

貧乏な子だけが来ていいよ、となったら、それこそいじめにつながりかねませんよね。

あそこに言っているヤツは貧乏なんだぜと、子どもは容赦ないですから。

 

子どもだけの食堂というよりは、子ども一人でも安心して来れる場所、それが子ども食堂です。逆に子どもだけが参加できるという条件がある子ども食堂は、全体の4%だけだとか。

 

増え続ける子ども食堂

冒頭でも書きましたが、子ども食堂は、増加中です。その一方で、少子化の日本では、中学校も小学校も閉校が増え続けています。

子ども食堂は、全国の中学校の数に迫っているそうです。

 

どんどん増加中で、1日に3から4つほど、全国のどこかで子ども食堂が誕生しています。

子ども食堂の特徴として、歩いて行ける範囲にある、ということですから、じきに小学校くらいの数になるのではないかなと思います。

 

延べ利用数も1300万人近く。

 

人口減少の日本ですが、増加している子ども食堂。誰かの居場所となっている子ども食堂。

湯浅誠さんもこの増加を不思議な現象だと言っていました。

 

SDGsとは、「いい祖先になろう」の意味

今話題のSDGsですが、湯浅誠さんから聞いてやっと腑に落ちました

 

未来の人たちからみて、このままだと恨まれてしまう。未来の人からみて2023年に生きていたヤツは、一体、何をやっていたんだと言われないように。

 

それだけ温暖化やら災害やら発生しているわけですが。

 

未来の人からみて、あの時代も頑張っていたんだねと思われるようにすることが、SDGsなのです。

 

これは、次世代にバトンをつなげていく、ということです。

子ども食堂も、今を生きる人を横につなげることはやっていますが、これを次世代につなげる。

 

地域の大人が子ども食堂をやって、地域のことを考え、自分たちをみている、それを体験した子どもの誰かは、同じように続けていくことでしょう。

 

子ども食堂がスタートし始めてから10年が経ちます。その頃、10歳の子も20歳です。これから徐々に、成人してバトンが渡されていきます。

 

小さい頃やってくれていた大人がいたから、自分もやっているんだという人が現れることでしょう。

 

今までの高齢者は、自分の孫のことを考えていればよかった。

孫に何を買ってあげようとか。

 

自分の孫ことだけを考えていても、その孫は気温が上がり続けて熱中症になるかもしれないし、水害の被害を受けるかもしれない。

 

孫のことだけを考えていれば終わり、の時代ではないのです。

 

最後に、89歳で子ども食堂を開いた人の話も出ました。最初は、子ども食堂を開いたことは、子どものため、児童福祉の扱いですが、91歳でおなくなりになった時は、ボランティアの人や子どももその高齢者のところに集まって、高齢者福祉になっていたと。

 

同じように、子ども食堂をやっている人に聞くと、他人のため、と思ってやり始めたが、自分が得していると感じる、というそうです。

 

私自身も、ボランティア活動をいろいろとやっていて、金にもならないのに、どうして続けられるの?、とか、金にならないのになんでやるの?とか聞かれますが、お金とは違うものを得られる、というのが答えです。

 

金銭とは違ったものなのでしょうね。うまく表現できないのですが。

 

以上、子ども食堂は、貧困家庭の子どものため、給食でしか食べられない子どもだけが集まる場ではない、ということがわかっていただけたらOKです。

 

子ども食堂という名前は、子ども一人でも安心して行ける場、それが食堂でもある、ということです。子どもがひとりでも行ける場ですから、高齢者もひとりで行ける場でもあるのです。

 

一緒に食べるということも、何も目的がないよりいいです。

 

ネーミングは、「みんな食堂」でもいいのですが、よく言われるように、入口を絞っていることが反対にかえって広がるということもあります。

 

「みんな食堂」では、誰が対象か分からず、かえって誰も集まらないことになりがち。他人事になってしまうでしょう。

子ども食堂といえば、子どものために一肌脱ごう、という人だって現れます。

 

誰が来てもいいんだよ、のメッセージは出しつつ、子ども食堂という名で続いていくのかなと思っています。